vernacular

さて、今日は伯父の一周忌の法事にでかけました。お墓の前で、お坊様(曹洞宗)が陀羅尼をとなえてました。サンスクリットの経典の音読みという事でしょうか。(法事全体では日本語化したお経もつかっている部分もありました。)最後にお坊様はお釈迦様の言葉が伝言ゲームのように言葉が歪まないように原語のままにしているという事を説明しました。お釈迦様の言葉は音も信仰対象という事が根底あるという事でしょうか?
聖書の母国語化(英語化)に長く関心を持ってきた私にとって興味深い御意見でした。聖書、特に宗教改革家による母国語化は、聖書を信者が神に直接触れる為の最も重要な道具として捉え、その翻訳を必要とした考えられます。(もちろん、カトリックで母国語を認めたのはかなり後になってからですが)聖書は原典でないラテン語訳のウルガータが長く教会で定着していた事などが、他の宗教とは違う事情を生んだといえますね。音の信仰がうまれる土壌ではないですね。
書かれた教えではなく、語られた言葉の音を信仰するという事に今更ながら気づかされた法事でした。